2026年7月1日
「先生、あとどれくらいですか。」
富士登山の引率をしていると、毎年のように聞かれる質問である。
標高が上がり、空気が薄くなってくる頃になると、その頻度はさらに増す。時計を見ては尋ね、カーブを曲がるたびに尋ねる。こちらも何度目か分からない「もう少し」を繰り返すことになる。その「もう少し」がなかなか曲者だ。地図の上ではわずかな距離でも、高山の薄い空気の中では果てしなく遠く感じる。
しかし不思議なもので、山頂に着いた後になると、その苦しかった時間を懐かしそうに話し始める学生が少なくない。


富士登山は単なるレクリエーションではない。私にとっては、野外教育、環境教育、そして冒険教育の要素が詰まった学びの場である。
野外教育の価値は、自然の中で自分自身と向き合うことにある。普段の生活では、暑ければ冷房をつけ、疲れれば椅子に座ることができる。しかし山ではそうはいかない。天候の変化も、足の疲労も、自分の思い通りにはならない。登山道に広がる火山礫の斜面は一歩進んでも半歩滑り落ちるような感覚を覚えることがある。そんな時、自分の体力や気持ちと相談しながら前へ進むしかない。学生たちは登山を通して、自分の限界を知る。そして同時に、自分が思っていた以上に頑張れることにも気づいていく。


環境教育の視点から見ても、富士山は貴重な教材である。富士山に関する環境学習を踏まえ登山道を歩いていると、植物が育つ場所と育たない場所の違いが見えてくる。分解の少ない標高でのトイレは日常のトイレと使用方法が異なる。標高による環境の変化を身体で感じることができる。時には落ちているごみを目にすることもある。学生は宝物を見つけたかの如く嬉しそうにそのごみを拾う。


世界文化遺産として知られる富士山だが、その美しい景観は自然の力だけで守られているわけではない。多くの人々が清掃活動や環境保全に取り組んでいるからこそ維持されている。学生たちには、富士山を「見る対象」ではなく、体験学習を通じて「未来へ残していく対象」として捉えてほしいと思っている。
そして冒険教育という観点では、富士登山はまさに挑戦そのものである。頂上ははるか遠くに見える。天候が急変することもある。疲労や高山病によって思うように歩けなくなることもある。お風呂のない世界、日常とは異なる場面が続く。それでも一歩ずつ進む。誰かが代わりに登ってくれるわけではない。もちろん仲間や指導者の支えはある。しかし最後に足を前に出すのは自分自身である。だからこそ、山頂に到着した時の達成感は大きい。御来光を見て感動する学生もいる。眼下に広がる雲海に歓声を上げる学生もいる。夜空にスターリンクが見えて感動する学生もいる。日本一高い場所に立ったという事実だけでも十分に価値がある。


私も毎年、その瞬間に立ち会うたびに、学生たちの成長を感じている。ところが、下山後の振り返りでは、必ずしも私が期待した感想ばかりが出てくるわけではない。
ある年のことだった。私は「一番印象に残ったことは何ですか」という問いを学生たちに投げかけた。御来光、山頂からの景色、達成感。そんな答えが返ってくるだろうと思っていた。
すると一人の学生がこう答えた。
「友達が持っていたお菓子を分けてもらったことです。」
拍子抜けした回答に笑いが起こった。しかし、その言葉を聞いた時、私は妙に納得した。苦しい時に励ましてくれた仲間。ペースを合わせて気遣い歩いてくれた仲間。そして何気なく差し出されたどこにでも売っている一粒のチョコレート。
学生の心に残ったのは、山頂の標高3776メートルではなく、人とのつながりだったのである。富士山は日本で最も高い山である。しかし学生たちがそこで見つけるものは、必ずしも高さではない。自然への敬意であったり、自分への自信であったり、仲間への感謝であったりする。そして振り返ってみると、富士山で本当に高かったのは山頂ではなく、人と人との支え合いの価値だったのかもしれない。


野外教育は自然について学ぶ。環境教育は自然との関わり方を学ぶ。冒険教育は困難に挑戦する力を育む。しかし富士登山には、もう一つ大切な学びがあるのかもしれない。それは、人は一人ではなかなか頂上までたどり着けないということである。学生たちの感想を読みながら、改めて人とのつながりの大切さを考えさせられた。そして同時に、友人の数では学生たちに到底かなわないことも実感した。

富士山の標高は3776メートル。
私の交友関係は、せいぜい七合目あたりである。