山梨学院大学 スポーツ科学部

私の人生における三つのスポーツとの関わり

2026年5月1日

三井 勇

 学生のためになるような話を、と考えてみたがあまりいい話は浮かばない。せっかく紙面をいただいたので、スポーツと私の関わりのいくつかをご披露したい。(プチ自慢になってしまいますが、悪しからず。)

ヴァンフォーレ甲府の命名者となったこと-スポーツを「支える」-

 人生で最もエキサイティングだったこと。それは、私がヴァンフォーレ甲府の名付け親になってしまったことである。

 1991年Jリーグの設立に合わせ、JSLアマチュアリーグに所属していた甲府サッカークラブは、チーム名も新たに1995年新Jリーグへの加盟を目指した。新チーム名募集は1994年12月を締め切りに行われ、私はこれに応募した。県庁勤めだったこの頃(勤務時間中は除き)、ネーミング辞典を片手にいろいろな名前を考えた。PCさえない時代に、アナログな手作業で言葉を探し、組み合わせてみた。コンサドーレ札幌は「道産子(どさんこ)」から、ベガルタ仙台は七夕祭りの「ベガとルタ(織姫星・彦星)」から。地域の特色がチーム名の由来となっていることは、ヒントとしてお借りした。

 一つ目にできたのが「サンヴィオーレ甲府」。「山紫水明」の国山梨の、山(サン)紫(ヴィオーレ:仏語)からの造語である。当時ヴェルディ東京が強く、ウに濁点のヴはおしゃれで、「いけるかな」と半信半疑でハガキに書き込み、ポストに投函した。

 しばらくして山梨を決定的に特徴づける、甲斐の武将「武田信玄」が降臨した。「武士」であれば「ナイト」、ちょっと様にならない。次は、孫子の兵法から来た旗印「風林火山」。英語では、風(Wind)、林(Forest)、火(Fire)、山(Mountain)。これではどの組み合わせも良くない。では、フランス語ではどうか? 風(VENT:ヴァン)、林(FORET:フォーレ)を合わせてみると、「VENT FORETヴァンフォーレ」。響きもいいし、ウに濁点ではないか。疾(はや)きこと「風」、徐(しずか)なること「林」というゴロは、動(攻め)と静(守り)の意味合いにも合致する。これはいける、と直感した。ところが、締め切りを確認したら、考え付いたその日。慌ててハガキに書いて投函した。締め切り日の投函だから、選考外かな?と心配しつつも、ダメ元で送った。

 応募したことはとうに忘れていたある日、実家への運転中、カーラジオから新チーム名のアナウンスがあった。「それは、ヴァンフォーレ甲府です。」と聞こえた。その時、「おーっ」と震えが走った。
さて、ハガキは締め切り日を過ぎて着いたはずなのに…。これがむしろ良かったのかもしれない。(なお、初めに応募したサンヴィオーレ甲府も、10点の候補に入っていたと、後から担当者から聞かされた。)

 新チーム名発表会も開かれ、一躍時の人。いくら貰えたの?と多くから聞かれたがそれは秘密。その後のヴァンフォーレ甲府はJ1で活躍し、天皇杯で優勝するなど、山梨県民を勇気づけた。アジアチャンピオンリーグに出場した時には、新聞で「名付け親誇らしげ」などと取り上げられたりした。

東京教育大学でバレーボールをプレーしたこと-スポーツで「つながる」-

 時は1974(昭和49)年、東京教育大学は、学園紛争や都市の制約などを背景に、新制筑波大学へ移行した。師範学校(1872年)⇒東京高等師範学校(1886年)⇒東京文理科大学(1929年)⇒東京教育大学(1949年)⇒筑波大学(1974年)と続いていき、今の筑波大学がある。
こうして人的、学問的伝統は東京教育大学から筑波大学に継承されることになった。これを受け関東大学バレーボール連盟は、1975年までは東京教育大学、1976年から筑波大学というチーム名で大会に出場することを認めた。

 私は、筑波大学の1期生として入学したため、1・2年次は東京教育大学、3・4年次は筑波大学。4年間の内2年ずつ異なるチーム名で出場することになった。1部6チーム、1・2年次は、東京と筑波に分かれて練習。土曜・日曜は東京で試合。大変なハンディキャップのはずだ。何度も1部・2部の入れ替え戦を経験したが、常に関東の6位前後という地位を占めていた。(自画自賛で恐縮)

 我が国の体育の父、嘉納治五郎先生が創始した東京高等師範学校から発展し引き継がれた伝統の上で、東京教育大学というチームの一員になれたこと、そのユニフォームで戦えたこと、また1期生として体育の教員育成に応えられたことは、本当に幸運であった。


 かくしてこの4年間が、その後の私のバレーボール人生、教員人生の大きな礎となった。

バレーボール引退からランニングを始めたこと-スポーツを「する」-

 バレーボールの選手活動が少なくなった35歳頃から、少しずつランニングを始めた。動機は運動不足解消と、中年太りを防ぐため。毎日通勤も含めて10 km前後。おかげで体もシェイプアップし、88 kgあった体重は10年間で70 kgまでに落ちた。45歳頃には、身体が宙を舞うくらい軽くなっていた。おまけに負けず嫌いに火が付き、完全にアスリートランナーとなってしまっていた。55歳頃からは毎日10 km、月300 km、65歳では月400 km、毎朝4時半から1時間走った。土曜、日曜は20 km以上が当たり前で、70歳までそれは続いた。

 目標があれば頑張れる。東京マラソンをはじめ、各種マラソンレースにも出場するようになった。振り返れば約20回フルマラソンに出場した。そして、68歳で迎えた東京マラソンではパーソナルベストの3時間23分でゴールできた。


 マラソンは自分と闘うスポーツ。時にはエネルギー切れで大転倒したこともあった。

 実力があったときは楽しい。老化を感じている今は超苦しい。頑張ろうとする自分と逃げたい自分とが闘う毎日である。急速に退化が進むことが心配で、走ることを止められない。これが私の生涯スポーツである。今は勝手に自分自身を教育者であり、実践者(古希アスリート)であるなどと言っている。

 2016年、スポーツ科学部の設立と同時に本大学に赴任し、あっという間に10年が経過した。7回の卒業生を送り、ミッションである教員養成も着々と実を結んできた感がある。

 おかげさまで50も歳の若い学生と、楽しい時間を過ごすことができている。そして10歳は若い気持ちでいられる。このように充実した時間の中で毎日を過ごせることに、心から感謝したい。